このかりそめの引用は
エズラ・パウンド三一歳の小詩集「大祓」には
パピルスと題する短い詩がある。春・・・・・・
ながすぎて・・・・・・
ゴングラ・・・・・・これはパウンドがその詩集のなかに置くことによって
詩になった詩だ。というのは、その注にあるように、
これが「コロフォンのゴングラに捧げたサッフォーの
詩の現存の断片」であり、その最初の三行の冒頭の
ことばしか残されていないものだから。私はこのころの幸せそうなパウンドが好きだ。
ロンドンのウェスト・ケンジントンのアパートで
ギリシャやイタリア、それに中国や日本の勉強をして、
皮肉と攻撃性を喜び、詩を短くすることに腐心していた
その横顔が好きだ。この詩によってギリシャの日差しはロンドンの驟雨を
くぐり、日本の初秋の午後にもまぎれこんでくる。
ながすぎて・・・・・・という時間は、まるで一瞬のように、
(窓にカーテンは揺れ、ヘリコプターの音が遠ざかると
近くの校庭からの子どもたちの喚声も小さくなった。)秋風や酒肆に詩うたう漁者樵者
さびしさのうれしくも有秋のくれパウンドのその後の非運は、私をなつかしさの深みに
誘い、蕪村の悲哀にまで連れていってくれた。おそらく
詩において、時間の流れ方は科学の説明するしかたと
根本的にちがうのだ。春・・・・・・
ながすぎて・・・・・・
ゴングラ・・・・・・このかりそめの引用は、今年の夏が余りにも鮮やかに
幕を引き、秋風を吹かせたせいだ。(『石の華』第2号、1993)
小歌仙 秋乃余波
金子真砂・佐賀啓男 白きものに光降る見ゆ白く見ゆ 真 入江の舟の出払いし午後 啓 門を出て当てある道の無きほどに 啓 結びしものはさるすべりの実 真 風ゆれて薄き衣や沖の月 真 歩み留むる草叢の音 啓 釣人の見せし鱸も口あけて 真 見えぬ烏を見ずに戻れり 啓 虫の声聴き入るほどや老の夫 真 去年の不作のゆかしくもあり 啓 栗の飯供えつ母も在りし日を 真 数珠玉青く照れる庭の端 啓
(『石の華』第3号、1995)
蕪村の想い出
太陽がまわる ソクラテスが動く
そして 土管が転がる
スタコラサッサー!DNAをよじ登る人間一匹
カルミナ・ブラーナ 下界は遥か馬が薔薇をとびこえると 夏が死ぬ
しかも 扉をあけると海だ冬薔薇に蝶の飛び立つけぶる水晶の青い憂鬱
雪の原の月の下で女が文を読めばけぶる古里はせつなく 菜の花が咲く!
(『三つの川を越えて』、1989)