
【釈文】 今日菟道辺之風景 多く 散分京ニのみ 見え候てのもの之通 貴叟 くらし罷在候 ホ句なとも 先頃より御在京のよし (一向)いつくへやら取失ひ候 扨も社中の小児輩一向 老耄御憐ミ可被下候 余辺 御上京のさた不仕遺恨 御ゆかしく候まゝ如此ニ御座候 之事ニ候 それ故御旅宿 いまた御在京ニ候ハゝ得 御見舞も不申 御ふさた 貴意物ニ御さ候 宿之者も 不本意之段 御宥恕 くれ〜〜御伝声申上候 頓首 可被下候 いまた御滞留ニ候や うけ給りたく候 百池も 六月九日 いつのまにやら一向面会 夏の月千々の波 いたさす候 第一百池より ゆく浅瀬かな 御上京のさた早速可致 愁つゝ丘にのほれは 筈之所 等閑之至 花いはら 届さる事ニ御座候 愚老 よろしからぬ句なれと むすめ事なとにて 俗事 希運付候 暮雨主盟 蕪村
【討論】
いま、この書簡についての論考を準備していますが、まずはその結論部分を箇条書にしるします。
○書簡は、安永五年六月九日付、暁臺宛。京都は祇園祭の最中である。
○「愁つゝ丘にのほれは花茨」の作句年次は安永五年六月ないしその少し前である。
○「夏の月千々の波ゆく浅瀬かな」は逸句である。
○「千々」の用例から、『北寿老仙を悼む』はこの頃完成されたことが示唆される。
○暁臺は、このとき、再び京都に来ていた。その後いったん名古屋に帰り、また八月に上京した。
○この書簡といっしょに、蕪村が描いた伏見・宇治川あたりのスケッチが暁臺に届けられた。
○「夏の月」の句には、芭蕉の嵯峨・嵐山辺における句が反映し、暁臺への挨拶の意もある。
○それはこの頃、金福寺芭蕉庵再興前後の蕪村の心の動きにもつながっている。
○この時期、娘のことで蕪村は気をもむことが多かった。あるいは縁談も生じていたか。
○「愁つゝ」にも「夏の月」にも、宇治川の堤が反映している。
○「愁つゝ」には、それだけでなく、結城・下館辺の川、利根川、淀川・毛馬堤も反映している。
○結城の雁宕、境の阿誰が亡くなったことが、「愁つゝ」にも「北寿老仙」にもつながっている。
(平成11年4月7日、佐賀啓男記。ご意見をお寄せいただければ幸いです。)