Hiroo Saga (1995) Ishi no Hana, No.3
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目 次
本帖の形式的特徴
句と字体
画帖か画巻か
挿画のいくつか
「丸盆の」の作句年
安永六年秋訪問を支える几董連作句
『句集』を準備した幻の自筆稿
参考:『句集』と本帖の異形一覧
付記
蕪村安永六年俳句畫帖の謎、補遺
本帖を引墨する書物
蕪村と本願寺のつながり
湖南から上洛後、越後へ向かった安永六年暁臺
参考:『蕪村俳句畫帖』百七句の翻刻(別ページ)
付記
一、蕪村が暁臺を訪ねて得たという「丸盆の椎にむかしの音聞む」の句は、現在の定説である安永八年九月より前に成っていた。
二、表記上の細かな差異は除き、また、すでに明らかにされているものも含めて、本帖中の十三句は、のちの句姿と比して異形であり、その推敲過程の考証に新たな問題を提出する。
三、安永七年以降の作とされている句のうち、本帖に掲載されている十二句は安永六年の冬以前に成った句ということになる。
四、蕪村没後の几董筆『蕪村句集』(以下、『句集』)の骨格は、すでに安永六年冬に蕪村自身によって形づくられていた。
五、蕪村は百池より借りた発句帖なども参照して本帖をつくり、それを依頼人の手に渡した。そして、本帖にかかわる手稿を基として徐々に最晩年にいたるまで『句集』の構成を続けた。すなわち、『句集』成立をより直接的に導いたのは、いわゆる『蕪村自筆句帳』ではなく(それはむしろ「季別年代別ノート」である)、本帖にかかわってそれを発展させた幻の『蕪村自筆句集稿』である。
この本について書かれた論文を私がこれまで読んでいないといっても、この本の所在については、俳文学界において確認されているようである。まず、東京大学図書館にも本書が所蔵されており、私はそれを見ることができた。その『連歌俳諧書目録』には、「年代不明」の項に「大複写」本として掲載されている(三五三頁)。さらに、清水孝之氏の『蕪村の芸術』(昭和二十二年、至文堂)で、「蕪村研究文献目録」に複製のひとつとして掲げられている(ただし、発行所を「天壽堂」と誤植、二八一頁)。また、丸山一彦氏による「蕪村・一茶研究文献総覧」にも、「複製」の項にたしかに記載されており(『國文學』、第三巻第三号、學燈社、昭和三十三年、一一五頁)、『蕪村事典』(平成二年、桜楓社)の「研究文献目録」(四八〇頁)のなかにも、同様の記載がある。
しかし、そのいずれにおいてもこの本が真であるとも偽であるとも記していないし、それを偽であるとする論文も見つけられないから、果たしてこの本は、蕪村研究家の間に流布しているのだろうか、あるいはそのうえでまったく問題にされていないのだろうか、無視されているとすればなぜだろうかと疑われ、なおさら私にはその不思議さが増すのである。ちなみに、一九九二年以来刊行されている講談社版『蕪村全集』第一巻、第三巻、第四巻、第八巻の解説(尾形仂氏、丸山一彦氏、藤田真一氏)にも、この本に関する言及はまったく見られない。
『蕪村俳句畫帖』と題されるこの複製本の形式上の特徴を確認しておけば、袋綴、黒布張表紙の中央に題簽が貼られ、扉には「大谷句佛上人所蔵」「井上木蛇畫伯装幀」とある。なお、同じ題簽がよもぎ色の布に貼られた帙があり、収められた句を翻刻し印刷した一枚紙が添付されている。本体の大きさは縦二十七センチ弱、横十九センチ強、厚さ約一センチ、蕪村真筆と推測される複写部分は二十一丁四十一頁にわたっている。その最終頁に「安永酉のとし冬の日人の需によりて/蕪村書」と書かれ、「謝長庚 春星氏」の白文連印が押されている。その裏白の次頁に、活版による奥付がおよそ次のように印刷されている。
大正十四年十二月十五日印刷 蕪村俳句畫帖
大正十四年十二月廿五日發行 定價 金七圓
大阪府東成郡天王寺村阿倍野一九三
編輯兼發行人 栗田二三
大阪市東區南農人町二丁目三四番地
印 刷 人 野坂健二
大阪東天下茶屋停留所西一丁 天青堂
発行日の十二月二十五日は、蕪村の忌日(天明三年同日)にちなんだのであろう。本体の自筆奥書に記された「安永酉のとし」はその六年であるから、原帖が所蔵家によって大正年間の大谷句佛氏(東本願寺二十三世、大谷光演氏。河東碧梧桐につき、句佛は俳号。昭和十八年没、六十八歳)にまで伝えられ、それが大阪の栗田二三氏(天青堂社主であろう)の手で相当にも忠実に編集複写されたとすれば、収められている句はすべてその年、安永六年の冬以前の作ということなる。その年の蕪村は、前年冬に嫁した娘くのを取り戻し、『新花摘』を書き、『春泥句集』に離俗論として名高い序を寄せている。
署名の「蕪村」は、やや太字で蕪から村へは筆跡はつながっておらず、多くの短冊や手紙にある典型的な字体とは見えないが、その特徴はじゅうぶん含んでいるように思える。印章は、「若竹自画賛」「ほととぎす自画賛」「月夜の卯兵衛自画賛」「からさけや自画賛」「枯尾花自画賛」など、画に句を配したものの多くに使われているのと同じであり、写真で見るそれらの印影と本帖のそれとを区別することは私にはほとんどできない。
なお、本帖はじめの四句は、遺草(「くぢら」第二巻一〇号所収石刷、明治三十六年創刊)として真蹟であると紹介されている四句に、句の並びおよび表記が一致している(鳥居清氏「明治大正俳句雑誌に見る蕪村関係資料」、『連歌俳諧研究』、第四十三号、昭和四十七年、二二頁。『蕪村全集』第三巻、講談社、平成二年、三〇八頁)。また、「安永酉のとし冬の日人の需によりて/蕪村書」という本帖奥書と同じ形で、その前年に「安永申のとし冬の日、蕪村書」とした手沢があり(『蕪村全集』第一巻、講談社、三〇〇頁)、それには、「芭蕉去てそのゝちいまだ年くれず」(本帖最後の句)、「春雨や鬼貫が文字のにじり書」(本帖三十四句目と類句)、「蓮の香や水を離るゝ茎二寸」(本帖三十五句目)の三句が記されているとのことであって、本帖がその延長線上にあることを推測させる。かりにこの両者が真であって、本帖成立に導くものと考えることができれば、冒頭に提出した仮説としての問題点はいずれも強く支持されることになる。しかし、そこにさかしらが混じり、たとえば何枚かの懐紙などに分けて記されたものを配列して最後に年号と署名・印を含んだ紙を置く、あるいは偽筆家が介在したというような作為が加えられているとすれば、それらの基盤のいくつか、ないしその多くは崩れざるを得ない。
収められている句は、「三椀の雑煮かゆるや亭主ぶり」(『句集』の「長者ぶり」とは異形)にはじまり、春夏秋冬の順に並べられて、「はせを去て其後いまだとし暮す」で終わる百七句である。季節別にかぞえれば、春二十句、夏十六句、秋二十三句、冬四十八句と圧倒的に冬が多く、原帖の「冬の日人の需によりて」したためられたという事情を反映しているように思われる。この百七句のうち百五句までは、ところどころに表記法のちがいはあるにせよ、また『句集』とは異形の十三句も含むが、几董著天明四年刊『句集』に収録されている。しかし、「雉子打て戻る家路の日は高し」と「牡丹ある寺行過し恨哉」の二句は、のちの享和元年成『蕪村遺稿』(以下、『遺稿』)に出るものである。ただしこの二句、河東碧梧桐による『遺稿』翻刻には、それぞれ「雉子うちてもどるや家路の日は高し」「牡丹有寺ゆき過しうらみ哉」の形で出るが、水落露石編・明治三十三年刊の『蕪村遺稿』には含まれていない。また、前者は『五車反古』に「雉打て帰る家路の日は高し」、後者は『新花摘』に「ほたん有寺行過しうらみかな」の姿で出る。
異形十三句については、本帖を偽であるとする立場からは写し誤りと考えられるし、本帖を真であるとする立場からは作者にとって姿が揺れていたものとなるが、その数十三に至っては後者を採りたくなる。また、後段で考察するように、本帖のとくに冬の句の配列が『句集』冬の部とほとんど違わないことは、本帖が『句集』を準備することになったか、本帖が『句集』を踏まえて造られたかのいずれかであることを想像させるが、『遺稿』に出る二句を含んでいることを考慮すれば、前者の見解、すなわち本帖が『句集』以前に位置づくという推測の方が有力になる。
これらの句の字体についてまず目立つのは、細い部分と太い部分の対照があざやかで、跳ねかえりのやや強い、まだ新しい筆を使っているように思われることである(あるいは絵筆使用か)。そのためもあって、全体に、『新花摘』のような句文集やこの時期の書簡に見られる姿に比べれば、鋭角的な印象を受ける。しかし、それにもかかわらず、特徴のある「や」「の」「す」「か」「月」「中」「夜」などは、まさにこの時期の蕪村のものであると思われるし、とくに本帖三句目に現われる「うぐひすの麁相がましき初音哉」における「うくひす」の字は、諸書に出る短冊、「うぐひすのあちこちとするや小家がち」の「うくひす」と酷似する。他にも、たとえば、「いかだしの簔やあらしの華ころも」「狐火の燃つく計り枯尾花」「馬の尾にいばらのかゝる枯野哉」「御經に似て尊さよ古暦」(いずれも本帖における表記)などは、他の画賛や短冊に見るものと微妙にちがい、全体として大きく似ている。強いて気にするなら、あるいは月渓の筆が混ざったか、碧梧桐の明治三十年代の筆跡が本帖の字に似ていることである。なお、本帖において句の改行は自在であり、紙の縦横によく調和するとともに、ときに挿入される画と一体になっている。これらの配列を見ると、原蹟があるいは巻子仕立であったとも推測される。
その推測は、たぶん正しい。というのは、それが気になっていたので、本帖出版の大正十四年冬前後の天青堂出版俳書を調べ求めていたところ、ある古書店で入手した大正十四年八月発行の古俳書文庫第拾六篇『在岡俳諧逸士傳・鉢扣』の巻末に、「古俳書文庫篇外複製・豫約募集中」として、枠囲いの中に『蕪村俳句畫卷』とあり、その下に「俳句、百七句、挿畫十八圖眞筆版」と記して、その左に「詳細は別に發表いたします、御照會を願ひます。」とする広告があったのである。この宣伝のままに、本帖が画巻として複製刊行されたかどうかは確認できていないが、より廉価にするために原蹟巻子を仕立て直し、画帖として複製出版したのであろう。定価七円。その広告を載せた古俳書文庫第拾六篇は一円五十銭である。
この複製本が何部出版されたのかは調べていないが、平成六年の間に少なくとも二本、神田界隈の古書店の棚に出ているのを私は見ている。ただし、そのうち私が所蔵しているものがもっとも美本なので、重ねて求めることはしていない。巻子としてこれが蕪村の真筆であるとすれば、後に述べるように、当時の蕪村が奥の細道画巻を何度か制作していた事実と対照されて、きわめて興味深い。なお、大正十四年十二月十五日発行の同文庫第拾七篇『風羅念佛・もゝちとり・あきの余波』には、この画巻の広告は載っていない。また、その前年の天青堂出版物には「蕪村筆」の『三十六俳仙版畫』もある。これは後に、その版下肉筆の真贋と所在の有無をめぐって大きな議論が生じた作品である。それと同じ版下を使ったのかどうかは不明だが、私はある古書店で、蕪村筆であるとされる『夜半亭六々句選』(碧梧桐・虚子等編、木版彩色刷、伊勢辰商店刊、昭和二年)を実見することができた。安東次男氏のエッセイ「真贋」(『与謝蕪村』、講談社文庫、昭和五十四年)によって知恵をつけられていたので、特に「や」の字に注意して全体を観察してみたが、入手すべきだとの判断は生じなかった。その「や」の字と本帖におけるそれとは、明らかに肝心のところで異なっている。
本帖(ないし本巻、と併記すべきであるが、便宜上「帖」と記す)をより魅力的なものにしているのは、句に調和した画であり、全体で十八描きこまれている。これらの画には、句中の語を画にしてその語のかわりに読ませるものと、句そのものに対応した光景を描いたものがあり、いずれも略筆で流麗な小品である。このように楽しげな画の使い方は、蕪村の書簡中にもときおり見出される。語のかわりに画が使われる例としてまず現われるのは、二句目の「日の光今朝や鰯の頭より」であって、鰯の部分に鰯の頭の画が描かれ、その下に「し」の字をまるで柊の枝であるように長くのばしている。
また、三十四句目の「でゝむしや其角文字のにじり書」は、句頭のでゝむしが画である。それによってかたつむりが這った跡のような文字が髣髴とされるし、「その角文字」とかけた蕉門其角の文字もそのようであったかと想像されて楽しい。四十句目の「水落て細脛高き案山子哉」と次の「三輪の田に頭巾着て居る案山子哉」の間には、両句で共用される形で案山子が描かれている。四十二句目では「腹の中へ歯の抜けらし種」とまで書いて、ひょうたん(ふくべ)を描き、そのなかに「旅人の眼鼻書行」と書いて、その外に「かな」と書く。なお、『日本画大成第三十九巻、俳画禅画』(東方書院、昭和九年)の第二七図は蕪村の扇面「ふくべ図」であり、ひょうたんのなかに「旅人の眼鼻かきゆくふくべかな」と賛して蕪村の署名がある。さらに、七十六句目では「こがらしや何に世渡る」とまで書いて、その下に家五軒と多少の樹木を描いている。
このような俳味に満ちた句と画の調和は、蕪村本人が成したのでなければ、よほど蕪村の身辺に近く、しかも画をよくした者(たとえば月渓)の手でなければ不可能である。また、かりに本帖がかなり後の時代の誰かによる創作であるとすれば、その近辺には、蕪村遺草の抜きん出た収集家がいなければならない。ちなみに、つけ加えれば、本帖一〇〇句目の「歯あらはに筆の氷を噛夜哉」に添えられた、机に向かって筆をとる自画像と覚しき画は、『与謝蕪村とその門人展』(尼崎市総合文化センター、昭和五十二年)に載る第六十図とたいへんよく似ている。しかも、大魯宛安永六年十二月二日付書簡中に、大魯の「ともし火に氷る筆を焦哉」を引いたうえで自句「歯あらはに筆の氷を噛夜哉」を記しており、その日付が本帖奥書安永酉年冬の日と符合するだけに書手の心理が浮び出てくるようである。
なお、本帖十九句目に「いかだしの簔やあらしの華ころも」が出て筏士の画が添えられているが、岩波文庫『蕪村俳句集』(平成三年)と講談社『蕪村全集』(第一巻、平成四年)では、その作句年次を蕪村最晩年の天明三年と確定している。しかし、安永八年春・樗良序で天明三年春刊の陸史編『まだら雁』と、凡夫編・安永九年冬序の『雪の声』にすでにこの句は収められているにもかかわらず、それを天明三年春三月作となぜ確定できるのかが不思議である。おそらく、百池が箱書した自画賛を第一の資料とした上での判断であろうが、この蕪村句を賛した筏士の画は、師没後、月渓も描き(『芭蕉・蕪村』図説日本の古典十四、集英社、昭和五十三年、三三頁)、金谷も描いている(『与謝蕪村とその門人展』、第八十図)。それだけ門下の者が見ていた題材であった。蕪村はこの句を「愚老生涯嵐山の句也」と自負していたから、その画賛も、百池箱書のもの以外に、季節が春になるたびに、何枚か描いていたであろう。天明三年成では遅すぎるのである。
さらに、この句が実は安永六年春に成っていたことを支持する有力な根拠がある。それは几董宛三月七日付の書簡で、前日に嵐山へでかけて雨に降られ難儀したことを伝えながら、「筏士が蓑もあらしの花衣」と書きつけている。岩波文庫『蕪村書簡集』(二八五頁)ではその年を安永九年としているが、そうだろうか。というのは同書簡中に、道立へ頼んでおいた芭蕉碑銘の下書を早く取寄せてくれとの文があるが、その碑が落成したのは几董『丁酉之句帖』によって、安永六年九月だと知れるからである。筏士の句の初案は、そのようにして、安永六年三月に得られ、それが推敲されて同年冬の本帖に収められることとなった。なお、安永六年三月七日付で几董宛のべつの手紙があり(同前書、一九〇頁)、やや不自然であるが、両書簡の内容は密接に連関しており、同日中、前簡が先で後簡が後であると思われる。
もうひとつ、本帖五句目の「楳散て寂く成りし柳哉」(本帖の表記)では、柳が画になっている。この句は、講談社版『蕪村全集』第一巻では天明二年の作と推測されている。しかしその根拠は、『夜半叟句集』の配列順によるという消極的なものである。そこで、句そのものに着目してみれば、安永五年冬に娘くのを嫁がせたことによって父に生じたであろう寂寞感が、この句における梅と柳に感応しているのを見逃すわけにはいかない。また、その年のうちに成ったと推察される『澱河歌』(蕪村編『夜半楽』、安永六年春刊)における「君は水上の梅」「妾は江頭の柳」とこの句の間には、濃密ともいえるほどの類想性がある。その強いつながりは、この句の成立を安永六年春へと導くにじゅうぶんであろう。
すでに作句年次にかかわる問題をふたつ指摘したが、ここで、冒頭に提出した仮説の検討に移ろう。なお、論点の二と三は記述がやや煩雑となるので、本帖の収める句すべての翻刻とともに別稿に譲ることとする。ただし、異形の十三句は、それらが作者本人のものであることを支持するように思われるし、いずれもみごとな推敲なので、参考のために本稿末に掲げる。さて、論点一として提出された仮説は、『蕪村が暁臺を訪ねて得た「丸盆の椎にむかしの音聞む」の句は、安永八年九月以前にすでに成っていた』である。暁臺は名古屋の人で蕉風復興の一方の雄であり、安永三年頃から蕪村一派との交流を深めた。この句をとくに採り上げるのは、それが深く蕪村らしいという句ではないが、暁臺を介して蕪村の芭蕉への思いが強く伝わり、『句集』への重要な契機を含んでいるからである。
現在の定説では、この句は、安永八年九月十二日、蕪村が几董、百池を伴って粟津義仲寺に滞留中の暁臺を訪ねたときに得たものであるとされる。句意は、「芭蕉『まづ頼む椎の木もあり夏木立』(幻住庵記)を踏んでの暁臺への挨拶句。丸盆に盛って供された椎の実の、盆の動きにつれてカラカラと転がるからびた音に、往年の芭蕉翁の風懐を偲び、ともに語り合おう」(講談社『蕪村全集』第一巻、四五〇頁)。しかし、本帖の蕪村自筆奥書が安永六年冬であることから、冒頭の論点一が生じることになる。この句は、本帖四十九句目に出るが、その前書を含めて、この句が現われるいくつかの原典の表記を並べてみよう。
幻住庵に暁臺が旅寝せしを訪て [幻を幼と誤れる]
丸 盆 の 椎 に む か し の 音 聞 む (本帖)
幻住菴に暁臺が旅寝せしを訪ひて
丸 盆 の 椎 に む か し の 音 聞 む (句集)
幻住庵に暮雨詞兄がたび寝を訪ひて (田福宛書簡、
丸 盆 の 椎 に 昔 の 音 聞 む 安永八年九月十五日付)
粟津幻住菴夜話
丸 盆 の 椎 に 昔 の 音 聞 む (安永八年正名宛書簡)
幻住庵に暁臺が旅寝を訪て (「自筆句帳」〜講談社
丸 盆 の 椎 に む か し の 音 聞 ん 『蕪村全集』第一巻)
なおこれ以外にも、懐紙<大正二・一二、入札>に「粟津の幻住庵に暮雨がたび旅寝せしを訪ひて」と前書するものがあり(講談社『蕪村全集』第一巻)、暁臺の側でも、『五車反古』(天明三年刊、蕪村門の維駒編)中で、
蕪叟を幻住菴にとめて [原本、幻を幼と誤れる]
暁 の 寝 す か た 寒 し 九 月 厨 暁臺
と対応した。また、のちの『暁臺句集』(没後文化六年刊)では、同句の前書を、より詳しく「洛の夜半主人、幻住庵のかり寝訪れし時、丸盆の椎にむかしの音聞む、ときこえしに、かたみて月を松もとの山、とかい付侍る。日頃おもひまうけし事ともとひもしいらへもしつ、月は四更にかゝる。夜のかさねいとうすく、裾引かくし肩おしならへて夢境に入。叟かしわふきに目さめて」と記している。さらに、暁臺真蹟として「夜半叟に幻住庵のかり寝を訪れて」と前書するものがある由(講談社『蕪村全集』第一巻)であり、両者の交流中、この出来事が芭蕉の故事を介してきわめて重要なものであったことがわかる。
さて、原典の表記を並べてまず気づくことは、本帖で幻住庵の幻を幼と書き誤っていることであり、それは『五車反古』中暁臺句の前書にも見られる。蕪村による同じ書き誤りは、霞夫宛安永五年一月十八日付の書簡(岩波文庫『蕪村書簡集』)及び真蹟として紹介された『幻住庵之記』(日本経済新聞社主催『蕪村名作展』目録、昭和三十二年十一月)にもあり、本帖だけのことではない。また、『五車反古』は、蕪村の序にも言うとおり、維駒が亡父召波の十三回忌をまつるために編んだものであるが、『續明烏』に続く蕪村一派の代表的選集として几董の助力が大きかったものと思われ、跋を書くとともにその版下をも書いている。とすれば、その幼の誤りは几董あるいは維駒か暁臺に帰せられる。そのようにこの誤りは、本帖が真であるとしても、じゅうぶんにあり得ることであった。この誤りにもかかわらず、また、庵を菴とする異同もあるが、本帖の表記は『句集』のそれにもっとも近く、本帖から『句集』へというつながりが想像させられる。
また、暁臺側の前書が『五車反古』よりも後の方で詳しく親密になっているのは、蕪村追慕の念の反映はもちろんのこととして、『句集』を見ての後の推敲という機制もはたらいていよう。このように幻住庵での応答は両者にとって重要事であった。ここでそれを、定説のとおり安永八年九月のことであったとしても、やや気にかかるのは、田福宛書簡と正名宛書簡における当日一連の句の連ねぶりである。そこに、事実の俳諧的意義の大きさを確認しようとする蕪村の創作的意図が私には感じられるのである。とくに正名宛の前書にある「粟津幻住菴夜話」とは、いかにも物語としてすでにできているような印象を受ける。ここから私には、「丸盆の」の句は、蕪村が少なくともすでに用意して幻住庵に暁臺を訪ねたのであり、さらに想像を逞しくすれば、安永三年以来の交流の間に、あるいは夢想にもせよ、蕪村が幻住庵に暁臺を訪ねたと書かしめる機縁が生じたと思われるのである。いかにも、そこは幻住なる住まいでもあったわけだから。
ここで私は、この句と「時雨音なくて苔にむかしをしのぶ哉」との句想の類縁性に着目せざるを得ない。時雨の句は、『句集』にも『遺稿』にもないが、門下の美角が編集し、安永三年の冬に序した『ゑぼし桶』中の「一弁香」各詠の第一句として出るものである。両句において、音とむかしは共通の語である。どちらも芭蕉をしのぶ句であることはいうまでもない。また、暁臺門の士朗と都貢著、安永三年五月奥書記の『幣ぶくろ』に、「木曽寺に行て故翁の墳前に跪ぬ」と前書きして「椎の花扇に落るなみだかな」と吟じた都貢の句がある。両門の交流の緊密さからして、蕪村はこの都貢の句を読んでいたにちがいない。もうひとつ、後段でより緊要な推察を行うことになるが、几董の安永六年『丁酉之句帖』には、「餞別」と前書する「椎の実の落て音せよ桧笠」の吟がある。ここで、椎の花は夏、椎とその実は秋、しぐれは冬の季語である。さらに、芭蕉にからむこの時期の蕪村句を加えて、これらを並記してみよう。
椎 の 花 扇 に 落 る な み だ か な 都貢、安永三年夏
時 雨 音 な く て 苔 に む か し を し の ぶ 哉 蕪村、安永三年冬
浪花遊行寺にてばせを忌をいとなみける二柳庵に
簑 笠 の 衣 鉢 つ た へ て 時 雨 哉 蕪村、安永四年冬
(本帖六十句目にも前書を欠いた形で出る。)
述懐
椎 の 花 人 も す さ め ぬ に ほ ひ 哉 蕪村、安永五年夏
餞別
椎 の 実 の 落 て 音 せ よ 桧 笠 几董、安永六年秋
幻住庵に暁臺が旅寝せしを訪て
丸 盆 の 椎 に む か し の 音 聞 む 蕪村(本帖、秋)
このようにひびきが交差する句を並べてみると、蕪村「丸盆の」の句が、はたして安永八年九月まで待たなければならないものかどうか疑われてくるのである。安永三年十月に暁臺は、芭蕉忌献詠興行を主催した。その場所が、尾形仂氏(『芭蕉・蕪村』、花神社、昭和五十三年)が引用する山下一海氏の研究によって、江南の義仲寺(幻住庵)ではなく、京都の美角亭で行われた(すでに清水孝之氏は、昭和二十二年刊『蕪村評傳』で、そのような解釈を出している)とされるにしても、そこに出席した蕪村が、それはほんらい近江の義仲寺でなされるべきであると考えるのは自然である。当の暁臺ですら、『ゑぼし桶』冒頭で、「江南のきそ寺にまゐりて」芭蕉忌を営んだかのごとく記している。しかしそのとき、季はすでに十月、蕪村はこの座に「時雨音なくて」の句は出しても、秋季の椎を含む「丸盆の」の句は出せるはずがない。
にもかかわらず、むしろそれゆえに、「丸盆の」の句が生れる機縁も、「幻住庵に暁臺が旅寝せしを訪て」とそれに前書をつける創作的動機も、そこに生じたのであろう。幻住庵のある近江に、その頃の蕪村はしばしば思いを馳せたにちがいない。安永六年の夏に、蕪村は『新花摘』を書いている。そこに現われる近江を舞台にした句をあげてみれば、「三井寺や日は午にせまる若楓」「鮒ずしや彦根の城に雲かゝる」「射干して囁く近江やわた哉」があり、他にもこの年の作として、「あふみのや麻刈雨の晴間かな」「しのゝめや露の近江の麻畠」「瀬田降て志賀の夕日や江鮭」「月の友石山寺の傘二本」がある。
さらに、蕪村には「夢中吟」と前書される句もいくつかある。芭蕉追慕の念と暁臺との深まる交流を背景にして、安永三年冬以降、同八年九月を待たずして、本帖の成った六年冬までの間に、夢に現れた句として、あるいは蕪村の創作的結構のひとつとして、「幻住庵に暁臺が旅寝せしを訪て、丸盆の椎にむかしの音聞む」の句は成っていたと考えることはできないであろうか。そのように安永六年の冬以前にすでに吟じられていた「丸盆の」の句は、安永八年九月に蕪村が実際に義仲寺に暁臺を訪ねた折にはじめて連衆の前に出され、田福宛と正名宛の書簡に他の四句とともに書かれたのであろう。なお、その四句のうちの「月に漕呉人はしらじあめの魚」は、本『俳句畫帖』に出る「秋風の呉人はしらじふくと汁」という明和五年作とされる句を踏まえていることは明白であり、書簡中「丸盆の」の句とともに旧作がらみであるというのは、句作者の心理にかなっているように思われる。
そして、この句は本帖に加えられ、それ以降「人の需によりて」のその人に秘蔵されていたとすれば、幻住庵にすでに暁臺を訪ねたとの創作的形容も、それが実際の出来事になるまで、周囲の者の目には触れなかったであろう。それを確証するには、本帖原蹟がおそらく巻子本の形で伝わった東本願寺大谷家から遡ってその消息をたずねるべきであるが、今の私の手に負える仕事ではない。ただ、本帖を真とする立場を採れば、そのようにして蕪村の手元には、本帖をつくるための手稿が残った。それが発展して『句集』成立に至ったというのが次の仮説である。しかし、その検討に移るまえに、右の定説を前提にしたやや無理な想像をここでいったん廃棄し、本稿の初心に帰って、蕪村はやはり安永六年までに、事実として、暁臺を幻住庵に訪ねていたという考察を提出したいと思う。
その事実は、他の誰よりも几董によって支えられる。すなわちまず、かれじしんの句稿である『晋明集二稿』の秋季中、次の三句が注目される。最初の二句は連続し、その二丁あとに三番目の句が出る(句頭の合点・は後の自撰句集『井華集』に撰入したもの、○は保留再考したものと思われる。講談社『蕪村全集』第三巻、六〇一頁以降)。
九月十二日、夜半翁と暁臺が湖南の旅舎にあそびて
○ 風 白 し 秋 に お く る ゝ 鳰 の 月
三井の梺に日暮るゝまでうたげして
○ 鐘 聞 て 月 に 親 し む 三 井 の 秋
・ さ す 月 も あ な 冷 じ や 九 月 厨
(注:文中、「カヤ」の語は原文では偏が巾、旁が厨であるが「厨」で代用した。)
蕪村の「丸盆の」及び暁臺の「暁の」の句の前書と、几董の第一句のそれは明白に対応し、几董はそれに日付までくわえている。第二句も、湖南での一連の雅事のうちである。第三句は、暁臺の「暁の寝すかた寒し九月厨」とひびきあっており、この句だけが後の『井華集』に採られ、前書をくわえた次の句姿で伝わっている。
蕪翁と暁臺が湖南の旅舎に遊ふ
さ す 月 も あ な 冷 し の 九 月 厨
几董の『晋明集二稿』は、天明になってからの句も混じるものの、基本的に安永年間の句を季別に整理したものである。したがって、これら三句が、蕪村の几董を伴った暁臺訪問の事実があったことの明確な傍証にはなるが、それが安永の何年であったかは特定できない。ここで想起されるのが、尾形仂氏の引用する百池の『大来堂発句集』であり、それには「秋の日のあはれをしたふて、粟津の幻住庵に主する暁臺・臥央の両子を訪ふべく」とはじまる一連の句を記し、蕪村・几董の記述を裏づけることである(『芭蕉・蕪村』、二四五−七頁)。尾形氏は、百池のその部分を安永八年晩秋のことと推測されて、それが今日まで定説とされているのである。しかしここでも、その根拠は、当該筆記録の前後の配列から推すという消極的なものにとどまっている。
ことがらの記録はつねに継時的になされるとは限らない、まして詩と表現にかかわればなおさら、それ以前の可能性はないのか、という考えを捨てきれずに調べ続けていたところ、私はそれが安永六年の秋であったことを推察させるに決定的ともいえる根拠を、几董の句稿に見い出したのである。すなわち、几董安永六年の『丁酉之句帖』に次の三連句が見える(講談社『蕪村全集』第三巻、五三九頁。なお、○と●は句稿に付された合点、・は字の左側につけられた墨点)。
述懐
● 帷 子 を い く つ 着 た と て 夜 寒 哉
・・・・・・・・・
旅寝に厨を着せ申て
乙 州 が 留 守 に 智 月 の 柚 味 噌 哉
餞別
○● 椎 の 実 の 落 て 音 せ よ 桧 笠
几董の幻住庵をめぐる謎かけのような連作であるが、まず、その第三句が、蕪村の「丸盆の椎にむかしの音聞む」に句想がきわめて近いことは明らかである。しかし、その前書の「餞別」とは誰に対するものか。几董が、あるいは同宿の誰かが出立するのを見送ったのかもしれない。けれども、それはおそらく芭蕉であろう。桧笠を着て旅立つのは芭蕉である。近江において芭蕉の世話をよくした智月、乙州の母子が芭蕉と別れる様を吟じているのである。そして重層的に、この句は、蕪村の「丸盆の椎にむかしの」の句と響きあっている。そこで、第二句。乙州は智月尼の養子であった。その息子の留守の間に、母が柚味噌をつくっている。あるいは、それを味わっているのは芭蕉であるかもしれないし、蕪村と几董もまたそうしたのかもしれない。しかも、この句の「留守」も重層的である。それは、蕪村、几董らにとって芭蕉はすでに留守であったことも含んでいる。では、句の前書「旅寝に厨を着せ申て」は、誰に厨をつったのだろうか。旅寝をしていた芭蕉であり、やはりそのようにしていた几董が同道の蕪村に対して、でもあったであろう。尾張暁臺もその場所では旅寝であり、そこを蕪村らは訪ねたのであった。それは暁臺の句「暁の寝すかた寒し九月厨」とも呼応して、ひとつの物語となっている。この前書に墨点が付されていることも注目される。几董も事実を、よりよい姿で残しておくことを願った。それは、几董『晋明集二稿』の「さす月もあな冷しや九月厨」へとつらなって、その最終的な句形、
蕪翁と暁臺が湖南の旅舎に遊ふ
さ す 月 も あ な 冷 し の 九 月 厨
となったのである。そして、几董三連作の第一句。その秋の夜は、暁臺の句のとおりにひとしお寒かったのである。かれの句集における「暁の」の句の前書に、それは見事に対応している。ではなぜ、几董のこの夜寒の句の前書が「述懐」なのか。これは几董自身のことではない。蕪村の「椎の花」の句につけられた「述懐」の前書ともそれは呼応しているが、それ以上に、むかし幻住庵で、芭蕉翁もやはり、このように寒い思いをしたことであろうという「述懐」なのである。この連作、第三句に合点が二つ付けられているように、芭蕉、蕪村、暁臺をめぐる几董生涯の重層法である。また、蕪村に深く豊かな連作があった(高橋庄次『月に泣く蕪村』、春秋社、平成六年九月)ように、高弟几董にもそれはあった。
このようにして、安永六年九月十二日、蕪村は几董・百池とともに幻住庵に暁臺を訪ねていた。この推察によって、蕪村の田福宛と正名宛の書簡の年次は再検討されなければならなくなる。また、この時期の蕪村、暁臺、几董、百池の動静も、あらためて検証されなければならない。安永六年の暁臺については、五月に松島行があったことは明らかだが、その旅がいつまで続いたのかはよくわかっていない。なお暁臺は、安永五年「仲秋、湖南に遊ぶか。 石山やのとかに出る秋の月 (月の夜)」とあり(伊藤東吉『暁台の研究』、藤円堂書店、昭和五十一年、一二七頁)、翌年の秋にも同じ気持ちになったと想像されなくもない。一方、蕪村の方は、安永六年九月七日付で柳女・賀瑞宛の書簡があり、同月二十二日金福寺で、その直前の幻住庵行きを暗示するように、写経社会、祖翁之碑落成の行事があった(几董『丁酉之句帖』)が、その間のことは不明である。両者におけるこの不明は、先の私の推測を消極的には支持するが、なお確実な根拠が求められなければならない。
しかるにひとつの根拠は、蕪村じしんに求めることができる。すなわち、九月十七日付の几董宛書簡がそれであるが、岩波文庫『蕪村書簡集』(一六〇頁)ではそれを安永五年のものとしている。しかし、その注に別の可能性を示唆しているように、この書簡、安永六年九月十七日、蕪村が一行と湖南から帰った四日後、金福寺芭蕉碑落成の五日前のものではなかろうか。というのも、その中で、前日に道立から石碑を刷ったものを五枚もらい、とても出来がいいので互いに生涯の面目よろこばしいとしたうえで、回覧も付いてきたから早速回すと書き、芭蕉碑落成の行事を示唆しているからである。しかも、この書簡を「此間は遠方埒もなき事、しかし宿もとにて少々用をいたしよろこび申候」と書き始め、これは少なくとも蕪村が几董と数日前に遠出して、忙しくいろいろなことがあったが、宿では多少意義のあることをしたので喜んでいることを述べている。そして、それがかなりの確実さで、私には湖南での暁臺との出会いのことを言っているのだと思われる。しかし、この出会いには、おそらく楽しからざることも含まれていたように思われる。というのは、それとかかわって吟じられた「椎を喰ミ ていさ俳諧の乞食せん」とその詞書がやや激越なことが、芭蕉と俳諧への蕪村の高揚した気分を現わしているのはもちろんだが、同時に暁臺への批判的態度をも含んでいると私には思われるからである。
もうひとつ、かつて蕪村の幻住庵への暁臺訪問の年次をめぐって、天明三年説と同二年説があったが、昭和二十四年十月号の『宿雲』における杉浦正一郎氏の「蕪村についての一問題−蕪村の幻住庵暁臺訪問の年時の訂正」によって、安永三年九月説が有力となった(清水孝之「最近の蕪村研究」、『芭蕉研究』復刊第一号、昭和二十六年十二月、七六頁、また、暉峻康隆『蕪村−生涯と芸術−』、明治書院、昭和二十九年十月、九三頁)。その根拠は、蕪村十三回忌と几董七回忌を兼ねた紫暁の追善集『雪の光』(寛政七年または八年刊)において、蕪村句の脇起歌仙を大津の騏道が寄せて、その前書に、「今ハはたとせはかりのむかし、蕪翁あかいほりにやとりして、幻住庵懐旧のことはに、丸盆の(以下略)」とあって、その文が書かれたときの二十年前は安永四年であるが、その年の暁臺動静から安永三年のこととされたのである。その騏道の「はたとせばかり」は、多少の誇張を含む修辞であろうから、安永八年ではそれがやや近すぎることになり、先の私解、安永六年秋の方が有利になる。
それに、安永八年はいろいろな角度から見て、蕪村の俳諧活動は低調であった。四月に「檀林会」が結成された(『連句会草稿』)ものの、宗匠蕪村のこれへの参加ははかばかしくない。あるいは病気がちであったか画用の方が忙しかったか。ちなみに、この年の秋から冬にかけての蕪村は、少なくとも『奥の細道図屏風』(秋)と『奥の細道図巻』(維駒本、冬十月)の大作を揮毫しており、それはひとつには、句作の低下を補うための充電行為であったようにも思われる。几董宛十月四日付の手紙は、大魯の一周忌について連絡するものだが、愚老も俗用に追われ老いの足では出席が難しい旨を記している。そしてこの頃、蕪村は大魯の遺稿句集『蘆陰句選』に序を書いて、発句集出版には概して消極的であることを表明しながら、転じて、大魯句集出すべしとの積極的態度を見せている。これが転機になったのであろうか、翌安永九年には、几董との名高い両吟『もゝすもゝ』へと蕪村俳諧が再び高まっていくのである。このような次第であった安永八年に比べれば、安永六年の句作は目をみはるものであった。その高揚期にこそ、蕪村の幻住庵への暁臺訪問がより自然に位置づけられるように思える。くわえて安永七年には、百池の句の暁臺による添削をめぐって、蕪村は暁臺へのわだかまりを強めており、その翌年の幻住庵訪問を想定するよりは、その前年にそれがあったとする方がおだやかである。すなわち今、異説、安永六年九月説が提出される。そして間もなく冬、蕪村は『離俗論』執筆へと、本帖制作へと向かうのである。
と、ようやくここで、本稿の準備した次の仮説に移ることができる。
さて、その仮説は、冒頭の論点四と五によって提出された。この二つの論点はたがいに関連しているので、いっしょに検討することとする。
四、蕪村没後の几董筆『蕪村句集』(以下、『句集』)の骨格は、すでに安永六年冬に蕪村自身によって形づくられていた。
五、蕪村は百池より借りた発句帖なども参照して本帖をつくり、それを依頼人の手に渡した。そして、本帖にかかわる手稿を基として徐々に最晩年にいたるまで『句集』の構成を続けた。すなわち、『句集』成立をより直接的に導いたのは、いわゆる『蕪村自筆句帳』ではなく(それはむしろ「季別年代別ノート」である)、本帖にかかわってそれを発展させた幻の『蕪村自筆句集稿』である。
ここでくりかえせば、本帖には、「三椀の雑煮かゆるや亭主ぶり」にはじまり、春夏秋冬の順に並べられて、「はせを去て其後いまだとし暮す」で終わる百七句が収められる。季節別には、春二十句、夏十六句、秋二十三句、冬四十八句と著しく冬に片寄っている。このうち百五句までは、若干の表記のちがいはあるにせよ、また『句集』とは異形の十三句も含むが、天明四年刊『句集』に収録されている。しかし、「雉子打て戻る家路の日は高し」と「牡丹ある寺行過し恨哉」の二句は、のちの享和元年成『遺稿』に出るものである。これらのうち、作年次不明とされているものは七句であり、『自筆句帳』未収句は、春九句、夏二句、秋五句、冬十一句、全体で二十七句である(岩波文庫『蕪村俳句集』との対照による)。
句並びの形式上の特徴を『句集』と比較してみれば、本帖百七句は『句集』所収八六八句の一二%にあたり、季別の出現率は、春八・五%、夏六・四%、秋十・六%、冬二四・七%と圧倒的に冬が多い。しかも、『句集』冬の部と本帖冬の句の配列順は、二ヵ所のみの順序がちがっているだけで、ほとんど同じである。春の句も夏の句も、それぞれ一ヵ所のみの順序がちがうだけである。ただ、そのなかに『遺稿』に出る一句ずつを含んでいる。しかし、秋の句の配列は、『句集』とおおいに異なっている。重層的に数えて一三ヵ所の異同があり、順序として安定しているのは、冒頭の三句と中頃の四句のみである。このことから推測すれば、特に冬の句の大きな一致は、本帖が『句集』を準備する基礎となったことを支持し、逆に、秋の句の大きな不一致と、春及び夏の句に『遺稿』に出る句が含まれることは、本帖が『句集』をもとに作者以外の手によって創られたという期待を裏切ることになろう。これによって、『句集』の骨格はすでに安永六年冬に蕪村自身によって形づくられていた、という仮説は支持される可能性がより高くなる。
さらにその推測を有利にするのは、『句集』と本帖に共通する芭蕉追慕の念の表われである。『句集』では、春の部、秋の部、冬の部のそれぞれの終わりの句が明らかに芭蕉をしのんでいる。また、本帖においても、秋の句の終わりの「干土田に紅葉散かゝる夕日哉」は、芭蕉の「ひつち田に霜の花見る朝かな」を踏まえており、冬の句の始まりは、前述した「簑笠の衣鉢つたへて時雨かな」である。また、本帖最後の句は、『句集』と前書「笠着て草鞋はきながら」も同じくする「はせを去て其後いまだとし暮す」である。ただし、両者で表記は少し異なる。この構成上の対応も、本帖の延長線上に『句集』があることをおおいに予想させる。安永五年に蕪村は『洛東芭蕉菴再興記』を書いている。そして、この頃から、一連の奥の細道画巻、屏風を揮毫しており、それと前後して本帖が成されたとすれば、作者心理のつながりがそこに反映されるのはきわめて自然であるし、それが当初から巻子仕立であったとすれば、芭蕉が巻子で筆記した『幻住庵記』をも介して、なおさらそのつながりは深くなろう。
現在の定説では、『句集』は、いわゆる『蕪村自筆句帳』(尾形仂氏、同名書、昭和四十九年、筑摩書房)から几董が選び編集したものである。それゆえ、原本の「几董著」は実際は「几董編」であるとされている。しかしながら、たしかに『句集』は几董の版下であるが、その字体は几董本来のものというよりは、師の字体に似せようとして努力しているものである。それは月渓ほど酷似しているわけではないが、じゅうぶん師のおもかげを伝えるものになっている。しかも、芭蕉追慕の念において蕪村とはやや性格を異にしていた几董独自の編集で、その念をみごとに反映している『句集』の構成がはたして可能であったろうか。几董は若干の表記上の調整は施したかもしれない。しかし、原本の「几董著」は、ほとんど「几董写」なのであって、私には几董が『句集』を浄書するさいに、その座右に今では幻となった『蕪村自筆句集稿』を置いていた姿が想像されてくる。
生前の蕪村に、その普段の言説とはうらはらに、みずからの手で精選した『句集』を出版する意図のあったことは確認されている。すなわち、百池宛年次不明十二月二十二日付書簡(尾形仂氏はこれを天明二年の書簡としている、講談社『全集』第三巻、十頁)に、
「句帳は来春迄御予り申置候。春に至り愚老句集、佳棠世話にて急々出版いたし申つもり候故、句帳とも引合せゑらみ申度候」
とあることによる。蕪村が百池などから自句を記録した句帳(『落日菴句集』など)を借りたことは何度かあったようで、几董(推定)宛安永六年五月の書簡に、
「百池かたへ発句帳かりに遣候所、火事後置所しれぬと申越候故」
とある。あるいは、この手紙が本『俳句画帖』の準備にかかわるのではないだろうか。寺村家火事後の五月にそれが借りられなかったにしても、その後、秋までには借りることができたであろう。それが『落日菴句集』であれば、そこに本帖所収の句がどれだけ含まれているかが問題になる。すなわち、春五、夏五、秋七、冬十七の三十四句であり、本帖全句の三二%にあたる。これは決して多い数ではないが、冬に頻出して、九〇句目から九十五句目までの六句は連続して出るなど、注目すべき部分も含んでいる。おそらく、その『落日菴句集』なども参照しながら蕪村はその冬に本帖をつくり、それを本帖依頼人の手に渡した。そして、本帖にかかわる手元控を基として、徐々に最晩年にいたるまで『句集』の構成を続けた。すなわち、『句集』成立をより直接的に導いたのは、いわゆる『蕪村自筆句帳』ではなく、本帖にかかわってそれを発展させた幻の『蕪村自筆句集稿』であろう。
現存の『自筆句帳』は、むしろ「季別年代別ノート」なのであって、まとまった自筆稿としてその資料的価値がきわめて高いことに変りはないが、『句集』成立を直接に準備したという意味では最重要の句帖ではなかったがために、『句集』に漏れた句を拾い、『句集後編』こと『遺稿』を準備するために使われた(句下の墨符で『句集』所収句をチェックし、句上の墨符で『遺稿』句を選んでいる)ものの、そのあとは娘くのの嫁入り手として月渓や梅亭による画を添えて頒布された。しかるに、幻の『蕪村自筆句集稿』は、『自筆句帳』ももちろんかたわらにして蕪村がみずから整え、それをもとに几董が『句集』の版下を書いた師の最重要の形見であったがために、かれの愛蔵に帰したまま、いつの頃にか、京都大火のような何らかの事由のため、後世に伝わること無きものとなったのである。
むろん、これは本俳句画帖(または画巻)を真としたうえでの推測であって、それは先の幻住庵訪問をめぐる考察によってかなり確実なものにはなっているが、さらに疑いなきものにするまでは、依然として今後の探索を導く私的作業仮説の域を出ない。しかし、蕪村研究が相当に進んだ今にいたるまで、この複製本に対する研究家の言及が、少なくとも私の探した限りは無いというのが不思議でならない。しろうとの私には気づけぬ基本的な判断が学会にはあるのだろうと身の縮む思いである。おそらくその判断には、蕪村の幻住庵行きをめぐって天明二、三年説が有力であった頃に、それは本帖と矛盾するし、安永八年説が確実視されても事情はまったく変らないことがかかわっていよう。そして、安永三年説が出されたときにこそ、この問題を解決する機会はあったのだが、戦後間もなくで蕪村研究復興がまだじゅうぶんでなかったのか、その説そのものの矛盾が先に指摘されることとなり、現在まで引継がれている安永八年九月説を定説とするに至ったのであろう。本帖はその間ながく、交差する矛盾の下に埋もれつづけていた。
と、ここで本稿を終えようとしたところ、ある古書店で『俳句』昭和五十八年九月号(角川書店)の『特集蕪村』をみつけて驚いた。その座談会のページに、本画帖が他の蕪村資料とともに写真で出ていたからである。『蕪村の絵画と文学』と題するその座談会の顔ぶれは、森本哲郎、鈴木進、大岡信、沢木欣一、尾形仂の諸氏。写真の資料群は、座談会場の畳の上に置かれてあるような映り方をしている。しかし、これだけの方々の座談でありながら、その内容はたいへんに興味深いけれども、そこに『蕪村俳句画帖』への言及はまったくない。なぜだろうか。その写真では、本帖が碧梧桐の『画人蕪村』と真蹟全集『蕪村』にはさまれるような形になっていたから、思わず私はやはり碧梧桐がかかわっているのかと邪推をしたほどである。
それでもなお、『句集』成立の経緯に関して気がかりなのは、写本『蕪村句集暁臺句集』の存在である。東大図書館洒竹文庫には、小冊写本として『蕪村句集暁臺句集』があり、うち蕪村句集の部には、「夜半亭蕪村著 自序 安永丁酉冬十二月七日(序)」とある(『東京大学総合図書館連歌俳諧書目録』、東京大学出版会、一五一頁)。この「自序」は、『春泥句集』に寄せた蕪村の離俗論として名高い文章をほぼ原型のまま写したもので、それをなしたのは、蕪村、暁臺、芭蕉を敬慕する暁臺門の俳人、もしかすれば信州の素檗あたりではなかろうか。写されている句はすべて、出版された『蕪村句集』に含まれているが、表記が異なっているものが多く、幻の『蕪村自筆句集稿』に、あるいは副稿ないし推敲の最終段階にあったものが存在していたかもしれないと疑われるのである。ここで想起されるのが、明治における『句集』発見の経緯である。子規が『蕪村句集』を最初に手に入れた者に賞を与えるとしたところ、片山桃雨がその抄録写本を探し出してきたが、それは大野洒竹が持っていたものを借りてきたのだという。明治二十六年四月のことである(山下一海「子規における蕪村の発見」、『俳句』昭和五十八年九月号)。その写本が、現在も洒竹文庫にある写本『蕪村句集暁臺句集』とかかわりがあるのかどうか。主題をより明確にするため、他稿において、それを探ることとしたい。
なお、本画帖において作句年に疑義の生じた残り九句についても、あらためてそれを検証しなければならないが、今はもう、それらがすべて安永六年冬以前に成ったのを前提することができると、ほとんど私は信じている。たとえば、本帖終わりに近く「うくひすの啼や師走の羅生門」があって、定説で安永七年末の作とされているが、この句に「右 夜半亭」と付記した遺草があり(真蹟全集『蕪村』)、亭であって翁ではないことから、それ以前、あるいは還暦前の年末かもしれないことである。また、本帖九句目の「養父入や鐵漿貰来る傘(画)の中」は安永七年以降の作とされているが、句想が『春風馬堤曲』と通いあうし、娘くのを嫁がせた直後の気分にも通じるから、私にはこの句安永六年の作と思える。しかし学会という土俵外でのこのように気楽な推測によって、蕪村研究家の方々には礼を失することになる。ご批判賜わるよう希うことによってお詫びするものである。最後に一言くわえるなら、本稿において私は、美を求める同類者間の句と心の交響を知った。蕪村の幻住庵への暁臺訪問にかかわる年次考証のささやかな発見以上に、その風雅の交わりに私ごときの参加が許されたことをこそ古人に深く感謝したい。
(平成六年十二月二十五日謹書)
『句集』 本帖
1.三椀の雑煮かゆるや長者ぶり 三椀の雑煮かゆるや亭主ぶり
2.草霞み水に声なき日ぐれ哉 草霞み水におとなき日暮哉
3.笋や甥の法師が寺とはん 笋や甥の法師の寺問む
4.かはほりやむかひの女房こちを見る 蝙蝠や向うの女房こちをみる
5.腹の中へ歯はぬけけらし種ふくべ 腹の中へ歯の抜けらし種ふくべ
6.順礼の眼鼻書ゆくふくべ哉 旅人の眼鼻書行ふくべ哉
7.村百戸菊なき門も見えぬ哉 村百戸菊なき家もみへぬ哉
8.小路行ばちかく聞ゆる砧かな 小路行ば遠くきこゆる砧哉
9.水かれヽ゛蓼歟あらぬ歟蕎麦歟否歟 水涸ヽヽ蓼かあらぬか蕎麦か否か
10.宿かさぬ火影や雪の家つゞき 宿かさぬ火影や雪の家つゞく
11.葱買て枯木の中を帰りけり 葱買て枯木の中を戻りけり
12.西念はもう寝た里を鉢敲 西念はもう寝た門を鉢たゝき
13.石公へ五百目もどすとしのくれ 石公に五百目戻すとしの暮
(付記)本稿初校後に気づいたことを三つ付記する。まず、『蕪村|逸翁美術館蔵品目録』の第五三図に、「魂帰来ヽヽヽ湖南路傍塚土薄草悴/江風髪峙嶽雪骨凍」とあり、講談社『蕪村全集』第四巻では、これを年次未詳としながら、安永六年、「祖翁之碑」落成時の作との可能性を示唆している。おそらくそうであろう。湖南から帰ってしばらく、湖南の塚と江戸の居を難じているのは何の寓意であろうか。 次いで、やはり逸翁美術館所蔵、『もゝすもゝも』の推敲にかかわる几董宛安永九年の書簡(岩波文庫『蕪村書簡集』の書簡一三〇)に、夏の巻の表六句で、「翁のすハふき」が述懐めいており、「あさましき」に「年ふりて」と続いて懐旧のようになるし、「泊りわひしき」が客愁の光景になっていやだと記している。それはまるで、湖南でのできごとが念頭にあるように私には聞えるし、述懐や懐旧であれば昨年のことではなく、もう少し前のことのように思える。しかも、その文に続けて、このように考えるのは、世人の批判を逃れたいからだが、とくに尾張の輩には気をつけなければならないと記し、暁臺への隔心が進んだことを示唆していて、それにはある程度の年数が必要だと思われる。
最後に、安永六年成の『新花摘』に、其角の五元集は原本から蕪村が写し、版下とする企画があったことを次のように伝えている。すなわち、其角がみずから精選浄書した五元集原本は、かれの没後、「芝神明の社僧某、其遺書を秘めおさめもちて世に出さず有けるを、我友百萬坊旨原といふもの、貴き價をつのり、とかくすかしこしらへて其書をゆづり得たり。さて余にはかりて、毫厘もたがはず此書をうつし得させよといへるを、容易にうけがひつゝ、いまだ業もはじめずありけるほどに、いさゝか故ありて余は江戸を」しりぞくことになった。蕪村の関東・東北流寓が始まって、江戸には帰れない。そして、「やがて龜成なるものに騰写せしめ、木にゑりて、つゐに世にひろうせり。すなはち今の世に行はるゝ五元集是なり。原本と引あはせ見るに、いさゝか秋毫のたがひもあらず、よく其角が手澤を失はざるものなり。」という次第である。この段、蕪村がみずからの意図を含ませ、その『句集』版下を几董が書くということまで予見しているようにも読めてくる。
Hiroo Saga (1995) Ishi no Hana, No.5; addendum
先の『石の華』第三号での推論と資料写真に対して、尊敬する何人かの俳文学者と美術史家から貴重なご意見とお教えを賜わった。しろうとの拙い仕事に対してさえ、ご好意に満ちた励ましをいただいたことに、心から感謝申し上げるしだいである。それにお応えする意味でも、書き足りなかったことを補いつつ、また、お教えいただいたことによって、その後考えたことを二、三記して、補遺として報告申し上げる。
この機会に、大正十四年十二月天青堂刊『蕪村俳句畫帖』の主要な部分だけでも写真で掲載すべきかとも考えたが、発行者・栗田二三氏と原蹟所蔵者・大谷句佛師それぞれのご後裔におことわりすることなくそれをなすのはためらわれたから、本帖(巻)所収の百七句を本稿末にかかげるだけにとどめた。その際、刊本に添付されている一枚紙の翻刻には、本体と対照するにいくつかの誤りが含まれていたので、それらを覚束なくも正したつもりである。なお、この百七という数と安永六年蕪村らの「百句立発句」とのかかわりの可能性を、高橋庄次氏からお教えいただいたが、私にはそのかかわりはほとんどないように思われた。
まず、本帖について言及し、または、その一部を引墨している書物を三点紹介する。いずれも私が入手しえたものである。そのうち刊記のもっとも古いのが、木村三樹編著、大正十四年九月発行『芭蕉蕪村子規三聖俳句選集』(東京の成光館出版部刊)である。この本は、その「凡例」にいうとおり「三俳聖の佳句名句を標準として類題別に輯録した」もので、巻末には三聖の小伝と俳史概要が記されている。本帖にかかわるのは、その凡例中に、「三聖に對する親しみをより深からしめんが為め、その畫像並筆跡を口繪として挿入した」由。ちなみに、三聖の肖像画はたしかに巻頭に収められているけれども、「芭蕉翁筆跡は『俳諧百家選』、蕪村翁筆跡は『蕪村俳句畫帖』、子規居子筆跡は『子規句集』所載のものから借りた」としていながら、そのいずれも本書には載らないのである。それが私の所蔵する一冊にのみ限られるのかどうかはわからない。また、本書の発行は大正十四年九月であるのに対して、『蕪村俳句畫帖』発行は同年十二月であるから、事前にその発行の予定を知り得た木村氏または発行所が、図版拝借を願い出たがことわられたという経緯があったのかもしれない。
次いで、昭和四年七月発行の今井柏浦編著『四季類題俳句大全』(大阪の湯川弘文社刊)、編者の努力の跡がうかがわれる一八六四頁の大冊である。今井氏記す「凡例」冒頭にいうとおり、「本書は元祿時代より天明を通じて、寛政、文化を越え、昭和の現代に至る迄の、古今諸名家の俳句中より、約四萬句を蒐めて、全一巻となし、季寄せ中一題と雖も、例句の存するものは、一句も逸脱せず、渉獵殆ど盡し、尚ほ卷尾に附録として俳文數十篇を添ふ」たものである。その巻頭に写真版で、芭蕉、凡兆、其角、蕪村の筆跡を示し、その蕪村の部が本『俳句畫帖』の一部をそのまま写したものである。はじめの図は十五丁表であって、「鍋提て淀の小橋を雪の人」と書いて小橋の画をその下に描き、その次に「雪折やよしのゝ夢の覺る時」の句を書く。もうひとつの図は四十一丁表、本帖最後の部分で、「安永酉のとし冬の日人の需によりて/蕪村書」と書かれ、「謝長庚 春星氏」の白文連印が押されている。
本帖から引墨する第三の本が、昭和三十四年一月、明治書院発行の俳句講座4『古典名句評釈』であって、その「中興期」(麻生磯次氏担当)蕪村の部(二六六頁)に、「凩や何に世わたる家五軒」の評釈中、蕪村筆跡として『蕪村俳句畫帖』所載と明示したうえで、本帖七十六句目の「こがらしや何に世渡る」とまで書き、その下に家五軒と多少の樹木を描いた図を載せている。以上、少なくともこれまで、本帖原蹟を蕪村の真筆であると推察された方が何人かはいらしたことを示している。なお、この他に、『文学堂書店古書目録』第十五号(平成六年秋)の一九五頁に本帖の写真が掲載してあり、その本体中の筆跡の一部を見ることができる。また、東大図書館洒竹文庫で本帖を見ることができるのは、前稿に述べたとおりである。
しかし私自身、正直申し上げて、本帖の字体と印影からは、これが確かに蕪村の真筆であると自信をもって断定することははばかられる。頂戴したいくつかのお教えの中には、これを「その資料的価値なども含めて、これまた吟味すべき点もある」とされるもの、「明らかに後世の贋作と思われます」とされるものもあった。ただ私には、これは偽筆であるよりは変調であると思われ、より多くの研究者に実際に見ていただきたいと希うものである。つまり、その字体については、蕪村ほどの能筆家にとって、これくらいの創作的変調は不可能ではなかったであろうとだけは申し上げておきたい。その能力は、少なくとも奥の細道画巻と屏風における実績に示されている。印章については、諸書に対照すると、たしかに違うように見えるものもある。しかし、識者のお教えを乞いたいのは、同一字並びの印は作家にとってつねにひとつだけなのだろうかということである。また、本帖の署名「蕪村」の字にもっともよく似ているのは、私の対照できた範囲では、『与謝蕪村とその門人展』(尼崎市総合文化センター、昭和五十二年)に載る第五十九図「薄図」と第六十図「自画像」である。前者には二句、後者には一句の賛があるが、いずれも本帖に収められ、よく似た画もつけられている。そして、後者の印章と本帖のそれとは、私には見分けがつかない。
本『俳句画帖』(画巻)が、大正年間の大谷句佛師にまで、かりに本願寺内部で伝来されたとすれば、蕪村と本願寺のかかわりが問題になる。そこでまず、東西いずれであるにせよ、本願寺は蕪村がときおり足を向けていた島原への道筋にある。そこには友人太祇の不夜庵があり、太祇没後も交流が続いたことは、『島原角屋俳諧資料』(昭和六十一年一月、角屋刊)などに明らかである。また、蕪村の信仰上(浄土宗、晩年は真宗に傾くか)のつながりもそこにあったかもしれない。しかも実際、蕪村が本願寺とつきあいのあったことは、少なくとも次の二通の書簡に示されている。
そのひとつは、士川・士巧・士喬の兄弟に宛てた蕪村の安永六ないし七年と推測されている日付無しの書簡(岩波文庫『蕪村書簡集』の書簡一〇二)であって、この手紙、正名宛の「粟津幻住菴夜話」と始まる書簡と似て、ことがらの記念とするような「作品」めかして書かれてあるようである。それは、仲のよい友人であった夜半亭門の月居と西本願寺勤士の芦人の間で、蕪村が選んだある句に両人たいそう感心し、それをある日、芦人が御門主に語り申し上げたところ、いたく感じ入られ、蕪村がそれを月居から聞き及んで、「されば愚老も宗門の事に候故ことに有がたく、且は撰者の面目にも備へ候て落涙いたすばかり」であった。そのことを大魯に尋ねたところ、一句は士喬子の作であった由、かく書き記してお目にかけた次第である、とある。
もうひとつ、画の方の弟子、梅亭との往復書簡(安永八年二月二十日付、岩波文庫『蕪村書簡集』の書簡一〇五)がある。すなわち、その往信中に、梅亭「御安康奉賀候。然ば昨日本願寺様席画、大当りに候。先生之御かげと忝候。」と書いて、蕪村が梅亭の本願寺出入りを世話したのだろう。また同じく、本願寺門主は「発句は御慰に遊ばし候」であって、後世の大谷句佛師への伝来がうかがえる。しかも、梅亭の画に句を賛するよう門主が望まれたが、自分はとんと発句が苦手なので、先生どうぞ御代句お願い申し上げます、と蕪村に頼んでいる。これに対して、復信中で蕪村が代句してやったのが、「恨有門も過けりおぼろ月」と「大津[絵]に糞落し行燕かな」である。この逸話、本願寺門主がかつて蕪村にも同じような依頼をしたことを示唆していて、かりにそうだとすれば、本『俳句画帖』(画巻)がそれに当る可能性がある。さらに、代句のひとつ「恨有門も過けりおぼろ月」は、安永六年の『新花摘』と本俳句画帖に出る「牡丹ある寺行過し恨哉」を明らかに踏まえている。「寺」は本願寺に通じるし、ただ、それに対して「恨ある寺」というわけにはいかないから「門」とし、また、「牡丹ある寺」というのは、牡丹の情趣上のどこの寺であってもいいわけだが、本願寺をそこに寓意させるという読み方も不可能ではない。
さて、前稿で愚考した蕪村の幻住庵への暁臺訪問の年次について、提出した安永六年九月説を支持すると思われる暁臺動静を知り得た。それをお教えいただき、貴重なご論考までお送りくださった玉城司氏(清泉女学院短期大学)に深く感謝申し上げる。以下の推察は、もっぱら同氏の論文『雲鈴・暁臺・乙二等巻子本一巻 −糸魚川市歴史民俗資料館蔵俳諧資料考(4)−』(清泉女学院短期大学研究紀要第十二号、平成六年三月)によるものである。
玉城氏の発見によれば、暁臺による芭蕉八十五回忌が、安永六年十月十二日に越後与板で営まれていた。巻子に貼り込まれている暁臺大色紙の最後には、「けふの翁むかふるもたゝ日の時雨」の句が記され、「暁臺」と署名して「暮雨巷」の白文方印、「安永丁酉冬十月」の年記がある。玉城氏が指摘するように、暁臺の芭蕉追悼句で時雨を吟じたものはほとんどない。同氏は、越後における例外的な時雨の吟を「越後与板が、大津義仲寺とは遠く隔たった地であり、暁臺は蝶夢らを意識せず素直に芭蕉忌に時雨を詠みえたからではあるまいか」と推察されている。そのような形での蝶夢の影響もあるであろうし、私には、それにくわえて蕪村の安永三年「時雨音なくて苔にむかしをしのぶ哉」(『ゑぼし桶』)の反映もあるように思われる。
安永六年九月十二日に幻住庵で蕪村と暁臺との出会いがあったとすれば、その後暁臺は上洛し、蕪村には会わなかった(蕪村はそれを望まなかった)ものの、百池方に世話になり、几董とも会ったはずである。とすれば、前稿で引いた几董安永六年秋の三連句のうち、「餞別」と前書する「椎の実の落て音せよ桧笠」の句は、智月、乙州の母子が芭蕉と別れる様を吟じているとも考えられる(前稿)が、より直接的には、暁臺が京を離れて越後に出立する際のものであると推察されよう。しかし几董は、この句に、後の『井華集』では「二柳が東行に」と前書をつけている。蕪村の安永四年冬「浪花遊行寺にてばせを忌をいとなみける二柳庵に、簑笠の衣鉢つたへて時雨哉」とも呼応するなかなかの重層的脚色(あるいは配慮)である。
暁臺は、その俳諧のためにまことに精力的に旅をした人であった。おそらくその上洛も、すでに明らかにされている以上の回数をこなしているであろう。寛政四年四月奥書記の門人桃睡による『暁臺終焉記』の冒頭では、「暮雨菴の大人、とし頃、都の空を戀しきものにの給ひしも、いつしか逢坂の關守人も見しるはかりのゆきかひになんなりにける。」と記して、名古屋と湖南、京をいききした間に、関所の役人と顔を見知るほどになっていたようである。安永六年九月中旬も、その関越えのひとつに数えられることになろう。しかし、そのときの在京は、おそらく三、四日というほどのものであって、間もなく暁臺は越後与板に向けて旅立ち、ふたたび逢坂の関を通過することになる。途上、幻住庵にもう一度寄ったかどうかは定かでないが、越中はほぼ確実に通っていたであろう。というのは、暁臺の絶唱と多くの評釈家が賞賛する、
九 月 盡 は る か に 能 登 の 岬 か な
は、この旅の途上、安永六年秋の終わりに、あるいは越中の滑川、魚津、入善あたりで詠まれたことが考えられるからである。この句きりっと気持ちがしまり、しかも深呼吸を促すような安堵感と解放感に満ちている。まるで、何ごとかをなしたあとの心の充実のようなものを私はそこに感じる。そして、そのほぼ半月前、粟津幻住庵での蕪村らとの出会いを契機に吟じられた、「暁の寝すかた寒し九月厨」の下五と「九月盡」との間には、尻取り句法(高橋庄次『月に泣く蕪村』、春秋社、平成六年)ないし首尾連関ともいうべき呼応関係がある。しかも、この句、『暁臺句集』秋の部の最後に見え、「暮秋」と前書された連作とも思える九句の九句目、下五を「九月盡」とする三連句のその次という劇的な位置に置かれている。
君見ずや古人暁臺が句、「椎の實の板屋をはしる夜寒哉」。
参考 『蕪村俳句畫帖』百七句の翻刻
注−字を「」で囲ったのは、語のかわりに画が使われた部分、また、句下の[画]は、句に対応した画が描かれていることを示す。
三椀の雑煮かゆるや亭主ふり
日の光今朝や「鰯」の頭より
うくひすの麁相がましき初音哉
うくひすを雀か(よ?)と見しそれも春
楳散て寂く成りし「柳」哉
出る「杭」をうとふとしたる柳哉
白楳や墨芳しき鴻ロ舘
隅々に殘る寒さやうめのはな
養父入や鐵漿貰来る「傘」の中
古寺やほうろく捨る芹の中
セイ相(湘)の雁の泪やおほろ月
女倶して内裡おかまん朧月
草霞み水におとなき日暮哉
春水や四条五條のはしの下[画]
春雨や綱が袂に小提灯[画](画の駒札中の字は「戻はし」)
初午や物種賣に日の當る
龜山へかよふ大工やきしの聲
雉子打て戻る家路の日は高し
いかたしの簔やあらしの華ころも[画]
梨子の華月に文よむ女あり
鞘走る友切丸やほとゝきす
牡丹切て氣のおとろひしゆふへ哉
牡丹ある寺行過し恨哉
ミしか夜やいとま給る白拍子
蓼の葉を此君と申せすゝめすし
「不二」ひとつ埋ミ残して若葉哉
若竹や橋本の遊女あるやなし
カヤの内へほたるはなしてあゝ楽や
古井戸や蚊に飛ふ魚の音くらし
笋や甥の法師の寺問む
鮒すしや彦根か城に雲かゝる
蝙蝠や向うの女房こちをミる
葉隠の枕さかせよ瓜畑
「てゝむし」や其角文字のにしり書
蓮の香や水を離るゝ莖二寸
雲の峰四澤の水の涸てより
蕣や一輪深き淵の色
華火せよ淀の御茶屋の夕月夜
名月や夜ハ人住ぬミねの茶や
水落て細脛高き
「案 山 子」 哉
三輪の田に頭巾着て居る
秋風や干魚かけたる濱庇
腹の中へ歯の抜けらし種
「ふ く へ」
旅人の眼鼻書行 哉
黒谷の隣ハ白し蕎麥の花
秋の暮辻の地藏にあふらさす
雨乞の小町かはてやおとし水
壁隣物ことつかす夜寒哉
幼(幻)住庵に暁臺か旅寝せしを訪て
丸盆の椎にむかしの音聞む
秋風や酒肆に詩諷ふ漁者樵者
稚子の寺なつかしむ銀杏哉
欠 ゝて月も無なる夜寒哉
白菊や呉山の雪を傘の下
村百戸菊なき家もミへぬ哉
小路行ハ遠くきこゆる砧哉[画]
憂人に手をうたれたる砧哉
水涸々蓼かあらぬか蕎麦か否か
客僧の二階下り来る野分哉
干土田に紅葉散かゝる夕日哉
簑笠の衣鉢つたへて時雨かな
狐火や「髑髏」に雨のたまる夜に
風雲の夜すから月の千鳥かな
たんほゝのわすれ花あり路の霜
炭賣にかゝミ見せたる女かな
子を棄る薮さへ無て枯野哉
草枯て狐の飛脚通けり
狐火の燃つく計り枯尾花[画]
馬の尾にいはらのかゝる枯野哉
蕭傑(條)として石に日の入る枯野かな
古寺の藤あさましき落葉哉
鰒汁の宿赤々と灯けり
秋風の呉人ハしらしふくと汁
袴着て鰒喰ふて居る丁人よ
河豚の面世上の人を白眼哉
こからしやひたとつまつく戻馬
こがらしや何に世渡る「家五軒」
麥まきや百迄生る皃計り
初雪の底を叩ハ竹の月
雪の暮鴫は戻て居るような
いさ雪見容す簔と笠
埋火や我隠家も雪の中
鍋提て淀の小橋を雪の人[画]
雪折やよしのゝ夢の覺る時
漁家寒し酒に頭の雪を焼
宿かさぬ火影や雪の家つゞく
皃見せやふとんをまくる東山
水仙や鵙の草莖花咲ぬ
冬されや小鳥のチる韮畠
葱買て枯木の中を戻りけり
皿を踏む鼠の音の寒哉
靜なる樫の木原や冬の月
冬木立月に隣を忘けり
二村に質屋一軒冬木たち
一瓢のいんて寝よれや鉢たゝき
木のはしの坊主のはしや鉢たゝき
華に表太雪に君あり鉢たゝき
西念はもう寝た門を鉢たゝき
氷灯の油うかゝう鼠哉
炭とりの「ひさこ」火桶に并居る
歯あらはに筆の氷を噛夜哉[画]
から鮭や帶刀殿の臺處
藥喰隣の亭主箸持參
うくひすの啼や師走の羅生門
御經に似て尊さよ古暦
題沓
石公に五百目戻すとしの暮
とし守やから鮭の太刀鱈の棒
笠着て草鞋はきなから
はせを去て其後いまたとし暮す
安永酉のとし冬の日人の需によりて
蕪村書
この補遺作成後に入手した天青堂大正十四年七月廿五日発行、古俳書文庫第拾五篇『夢の猪名野』(宮紫曉著、伊藤松宇校註解題)の巻末に次の広告があった。
「 古俳書文庫篇外複製 第三回發表に就いて謹告
芭蕉翁眞跡集、芭蕉門古人眞蹟集、古今短冊集と逐次複製も進んでまゐりました、第三回は當然蕪村に到らなければなりません、ところが、御承知の如く蕪村のものはその句、文、畫と一冊に纏つたものがありません、止むなく編纂的に複製を遂行する事にいたしました。尨大なるその材料は迚も一冊子といふ様な手軽には運びかねますが、集まるに從つて、短冊、書簡、繪畫、その他の畫卷、圖録等を刊行いたしたいと思ひます。いろゝゝの困難苦闘の中に微力な弊堂が完成しやうといふのでありますから、不相變御援助の程を希ひます。
實はこれだけでも相當の大事業でありますので、繼續して蕪村のものばかりといふことにせず、他の複製の間に交ぜて蒐集材料の完成したものから手をつけるといふことにならうと思はれます。具體的の發表は近日御手許に目録を送ることになりませう。宜敷お願いいたします。 天青堂 」
前稿で引いたとおり、『蕪村俳句畫卷』の広告は、この一ヵ月余り後の発行になる同文庫第拾六篇『在岡俳諧逸士傳・鉢扣』の巻末に載ることになる。右の「謹告」ないしそれにかかわる発行時の経緯が、おそらく、『蕪村俳句畫帖』の真贋を疑わせ、あるいは後世の誰かの編集したものという通説を生じさせたのだろう。俳文学界では、これは周知のことであったろうから、やはり私は身を縮ませることになった。迷い路をたどりながら、かえっていくつかの貴重な拾い物をしたというのが前稿であったかもしれない。それにしても、この謹告の文面が『蕪村俳句畫帖』を直接的かつ全面的に偽に導くものとも思えない。その伝来にまで、やはり遡らなければならないのだろう。なお、この几董十三回忌追善集『夢の猪名野』も、騏道を含む湖南からの句あり、月渓や楳亭の画ありと、きわめて魅力的な本である。天青堂と栗田二三氏(後に藤村作氏の註解で『新花摘』の写影本を出した栗田書店は二三氏とかかわりがあるのだろうか)は、蕪村研究に忘れられない功績を残されたというべきであろう。
(平成七年三月末記)
なお、平成九年十一月の『古典籍下見展観大入札会目録』(東京古典会)、11ページ(第839図)には、この「画帖」の草稿かとも思えるような資料が示されていた。どなたかが落札・入手されたはずであり、その資料と本稿とのかかわりにその方が言及してくださるようなことがあれば幸いである。(平成十四年四月記)
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