Poetry as an open space for lightening of Being

存在の明るみの場所としての詩

佐 賀 啓 男

Hiroo Saga (1994) Shigaku, 49(8), 24-25

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 長い年月をへても、そこに込められた認識や感情、見つめられていた物や風景が、抽象的でありながらもきわめて濃密に立ち昇ってくる詩がある。私にとってそのような詩は、たとえば、エズラ・パウンドの小詩集「大祓」にあるパピルスと題された短詩である。

  春 ・・・
  ながすぎて ・・・
  ゴングラ ・・・

 これはパウンドがその詩集のなかに置くことによってよみがえった詩である。というのは、その注にあるように、これが「コロフォンのゴングラに捧げたサッフォーの詩の現存の断片」(新倉俊一訳)であり、その最初の三行の冒頭のことばしか残されていないものだから。サッフォーは古代ギリシャの抒情詩人。この詩によって、私にはギリシャの春が、春そのものとしての濃密さで立ち現われてくる。そして、その日差しがパウンドのいたロンドンの驟雨をくぐり、私のところにまでまぎれこんでくるようにも感じられる。

 古典は、何度でもよみがえる。パウンドは、『詩学入門』のなかで、若い人たちにしきりにサッフォーを読むように説いている。古典が古典であるのは、パウンドによれば、「それがある構造上の規則に従っているとか、ある定義に即っているとかによるのではない。ある種の永遠不変の抑えがたい新鮮さがあるからである」(沢崎順之助訳)。その抑えがたい新鮮さは、どこからくるのだろうか。

 まれなことではあるが、存在が存在として詩のことばのなかに封じこめられ、そこにおいて、その存在が<隠れつつ現われる>ことからくるのだと思う。これは、ハイデガーの哲学がかすかに示唆した美学である。そして、この美学が私にとって、もっとも見事なかたちで現われるのは、蕪村の俳句である。

 ハイデガーの思考に照らすと、蕪村の句は何よりも<存在の詩>としてきわだってくる。むろん、蕪村はハイデガーよりもずっと先に生きた人であって、二人の間に直接的交流がないのはいうまでもない。しかしながら、そのへだたりを越えて気にかかるのは、たとえば次のようなぼたんの句である。なお、この句の舞台を牡丹園だとする見方が一般的であるが、私はそれを室内でのできごとに見立ててみる。

   寂 と し て 客 の 絶 間 の ぼ た ん 哉

 句会でもあったあとだろうか、あるいはそれはどのような人物たちでもよいような気もするが、その客を見送ってややほっとしたところを部屋にもどり、その片隅をふと見やると、さきほどからそこにあったはずのぼたんがまさにぼたんそのものと化して浮かび上がるようにそこにある。今しがたまで部屋にあった人の気配はすっと消えてゆき、あたりは寂として、明るくもなく暗くもなくそのおぼろげなる空気に照らし出されるように、ぼたんは立ち現われている。至福でもあり深く哀しくもあるようなたいくつが、長い一瞬のように身をつつむ。一瞬といえどもその空間には、詩人としての、あるいはハイデガー的な現存在である人間にとっての、離俗の時間がまるで永遠につながるように生起する。

 そのように読むと、一句は、存在は隠れつつかつ現われ、現われつつかつ隠れるというハイデガーの思考そのものに思えてくる。そして、あるものがないということによって、そのものがあるということとの間に詩的イメージを交差させる句法は、とくに蕪村の佳句の多くにおいて著しい傾向である。いいかえれば、蕪村句における否定辞あるいは否定的含意をもったことばの絶妙の使い方によって、ハイデガー流の存在の顕現がそのような句において、いわば<句>をその現われの場所とすることによって生起するとまで思われるのである。その否定辞とは、先のぼたんの句では「絶間、たえま」であり、さらにそのようなハイデガー的風景を典型的に現わしているもうひとつのぼたん句は、『ちりて後おもかげにたつぼたん哉』である。ここでは、目に見える事象への否定的態度をもつ「ちりて」「のち」「おもかげ」が連続して使われている。

 あるものがあることとそのものがないことが同時に成立するこのような風景は、その場所から永遠の方へと時間がつながる存在の裂け目でもある。それは<ない>と<ある>とが交差する場所、ハイデガーが語るところの<森のなかの間伐地>ないしそこだけが明るい場所であり、べつの蕪村句でいえば、『路たえて香にせまり咲いばらかな』のその場所である。「路がたえた」その場所でこそ、いばらの香と姿は全身にせまってくる。より人口に膾炙した『菜の花や月は東に』の句においてさえ、月と日の間にきわまる大空は、そうした存在の裂け目であるとも読めてくる。

 ないということのもうひとつの性格は、それが動きを含んでいることである。つまり、あることからないことへと移動することによって、そのものはないものとしてあることになる。その動きそのものは、ないということに含まれているから、その動きの起点であった<ある>ということも、また、<ない>ということに含まれているのである。『牡丹散て打かさなりぬ二三片』においては、まさにそのような存在的動作が句の生命である。ピュシスやポイエシスというハイデガーの使うギリシャ語の原初的意味は、このような句においてこそ生気を帯びてくる。さらにハイデガー流にいえば、それは<顕われと隠されの同時的な生起>である。

 そして、蕪村はたしかにこれらの句を吟じ創造したのだが、同時に、たとえばぼたんならぼたんの存在の方が、蕪村をしてその句を生じせしめてもいる。詩人はそこで、むしろ存在を聞き入っていたのであり、それに応えて存在の方が詩人を介して作品の形にみずからを現わす。詩人こそ、ハイデガーのいう「存在の牧者」である。


(『詩学』8月号、1994年、24-25.)

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