Hiroo Saga (1993) Nakadachi, No.14
春の連休の一日、雨のなかに結城・下館を訪ねた。與謝蕪村ゆかりの人に会うためである。上野から東北本線の電車に乗ると、栗橋を過ぎて利根川を越す。この辺はいまでは関東のへそ、五県境いであるが、若き蕪村は関宿・境あたりを経て江戸と結城をゆききしたと記述に残る。当時の鬼怒川の流れは現在とはことなり、境で舟を求めて北上したこともあると伝わっている。
利根川の上流が小雨でけぶっている。大正年間、俳人書家河東碧梧桐もこの鉄道路をかよい、結城、下館、宇都宮へ蕪村の真蹟を求めたと、下館のゆかりの当主に聞く。その成果である大正十五年刊碧梧桐著『畫人蕪村』を当主宅で見せていただいた。古河を過ぎると新緑が濡れていっそう深く、木々の背後の渡良瀬の水やさらに下流の私自身のふるさとの川や、蕪村の「春風や堤長うして家遠し」やかれの想像が愛した南宋の山々にかかる雨雲などがいくえにも重なりはじめ、風景と気分が分けがたくなってくる。それでも程なく列車は小山であり、碧梧桐の記録のとおりに水戸線へと乗り換える。下野と下総の国境である。
この小旅行の主目的は下館であったが、気がかりの結城でやはり降りた。まず結城つむぎ記念館にたちよったが、めあてはつむぎではない。その出窓に『蕪村と雁宕』と題する小冊子を見かけたからである。雁宕は砂岡氏で結城在、江戸で師を失い「我泪古くはあれど泉かな」と吟じた宰鳥号時代の蕪村が頼った同門の先輩である。寛保二年(一七四二)、蕪村二十代半ばから約十年に及ぶ結城・下館時代がはじまる。つむぎ館の青年に単刀直入、この冊子を金銭にてお譲り願えないかと尋ねた。それはできない、図書館ないし中央公民館を訪ねるがよろしという助言を得たので、雨でもあるし、やや近そうな中央公民館の突然の客となった。係長、小暮昭寛氏の親切によって胸がさわぐほどの資料を見せていただいたが、ほとんどは購買不可、ひとつ蕪村詩碑建立委員会発行『北寿老仙をいたむ』(昭和五九年)のみを頂戴して辞した。碑の立つのは法頂山妙國寺だが、他日を期して駅に向かう。
結城と下館のあいだに鬼怒川が流れる。下総と常陸の国境である。北寿は雁宕の近親で結城俳壇の長老、早見晋我。蕪村が深く敬愛したこの老人の死に会してなったのが、驚くべき清新の自由詩「晋我追悼曲」こと『北壽老仙をいたむ』である。詩中に「君をおもふて岡のへに行つ遊ふ」「友ありき河をへたてゝ住にき」とあるから、当然、これは鬼怒川を隔てて下館の岡に蕪村は立っているのである、というのが下館の当主、十九代中村兵左衛門氏の説である。一方、結城市内にもなにがしという小さな川が流れその脇に岡があるから、蕪村がいたのは結城であるというのが小暮係長の説であって人情の自然であろう。なお、この追悼詩は碩学潁原退藏先生の「春風馬堤曲の源流」によれば晋我歿の当時の作とされるが、その馬堤曲との詩的連関から後年京都での作とする説もある。
さて、午後の客としてはじめてお目にかかった十九代中村兵左衛門氏は下館の素封家で、蕪村研究家の大いに頼りとする人である。祖に九代目兵左衛門こと中村風篁をもち、その風流人風篁の庇護をも蕪村は受けたのだった。下館は真岡木綿の集積地として栄えた商都である。十九代によると風篁は仕事を番頭にまかせて句会にはげみ、蕪村の芭蕉を慕った東北大旅行の一部にも同行したとのことである。そのためかどうか中村家は一時傾いたらしく、その旨は蕪村後年の俳文集『新花摘』にも記されているから、御当主は「世話になったのに蕪村はけしからん」と微笑むのであった。ちなみに当主幼少の折、御祖母に連れられた墓参で、「風篁さんの墓は拝まないでよろし、家をたてなおした十代十一代の墓を拝め」と訓辞を拝したそうである。あいにくの湿気で蕪村真蹟の画と句帳は再訪の秋に開陳くださるとの由、風篁と蕪村の句碑のたつ枯山水の庭を巡って辞した。
それに当日は、六時から吉祥寺で予定された仕事の会合に出なければならなかった。不粋な話である。しかし仕事もいわゆる余技も、ひとりの人間のやることだから根っこでは通じているのである。教育におけるメディア研究とか教材開発とかが私の仕事であるが、『若き日の関東の蕪村』なる短編映画をつくることが仕事における後半生のひそかな願いである。碧梧桐には前出『畫人蕪村』のなかに小説『蕪村の青年時代』があり、現代でも蕪村の上洛以後を扱った小説をものした人はいるが、その常総における十年を想像力によって補った物語はまだないのである。蕪村は当時僧体していたらしいから黒装束で登場させようと思う。
また、研究という仕事の上では、昨今の情報技術による外側の映像の過剰が、人間の内側の想像力の豊饒に逆作用をなすという仮説を成熟させたいと願うので、蕪村句における時間と空間に認識と感情を分かちがたく織り込んだほとんどハイデガー的な風景は、第一の例証になると信じるからである。さらに、その日私が十九代当主に会うことができたのは、本務の教職課程用ビデオの制作でお世話になっている元下館小学校校長、宮本三郎先生のなかだちによってであった。先生とはこれから何度も下館、結城でごいっしょすることになろう。帰路の車窓から見た鬼怒川の岸辺には、『北壽老仙をいたむ』のなずなの白やたんぽぽの黄がまだかすかにゆれているようであった。
(『媒』第14号、放送教育開発センター、1993年秋)
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